ちょっと遡って「河合隼雄先生へ」公演(2008年7月19日20日)のこと。
どんな風に書いても何か憚られるような心持になりますが、ブログは気楽に・・・気楽に・・・と自分で励まして書いてみます。 これまでの公演と全く違うのは、これを作品化したいといふのではなく、これを創って舞って了わねば私は次へ進めない状態だったことです。 2006年8月17日に倒れられ、2007年7月19日に先生は逝かれました。折からその前年に逝かれた「鶴見和子先生へ」(2007年7月31日)を12日後にひかえていた時で、悲しみというふより胸に大きな空洞が出来て、そして重い塊がある、そんな心持でした。 「鶴見和子先生へ」公演のことも追々書きますが、この公演を終えて鬱々と日がたっていた時、レコード店十字屋のレジのカウンターでふと目に止まった京都新聞の記事コピー「天台声明とグレゴリオ聖歌・・・」試聴した瞬間に「これで河合先生への作品が出来る」と思い、舞台装置・衣裳、一景・二系・三景の構想がするすると浮かび、2008年7月19日の御命日に公演することを決意したのです。 多くの人がそうであるように 私も自分が生きてきて存在している意味を知りたく思ふている時 「明恵 夢を生きる」に出遭いました 創作舞踊「阿留辺幾夜宇和」初演が1992年 そして1994年東京公演 2003年スイス・チューリヒ、ドイツ・ダルムシュタット 河合先生の希って下さったイタリア・アッシジ 聖フランチェスコ教会大聖堂での上演 上演の度に作品の純度は高まり 作品化して舞う行為によってその思想は私の無意識下のものとなり 私自身のものとなっていくことを知りました このような形で このような仕事をさせて戴けることを幸せに思います そしてこの度の公演は 同じ思いの方々に 見守って戴きたく願って居ります (案内状) この公演では、古典曲 地唄「残月」と先述の創作「To Dr. Hayao Kawai」の2演目を舞い、私自身はもう暑さなど何も感じない状態だったのですが、河合先生を通じて御縁のあった門川市長と瀬戸内先生が終演後、河合先生の思い出などを対談して下さり、「それにしても暑いですねぇ・・・」に会場の皆さんが同意のほっとされた空気が、舞台裏にいた私にも伝わりました。あらためて、皆さん暑い中を山の中まで来て下さったことに気付いて、嬉しかったです。 私の思い願った通り、同じ思いの方々に見守られて公演を終えることが出来て幸せに思いました。 いづれ 上演作品 地唄「残月」 創作「To Dr. Hayao Kawai」について書きます。 #
by senrei-nishikawa
| 2010-03-21 18:08
帰国後、やはり忙しかったのです。
3ヶ月がたって了いました。 2009年10月6日(バークレー、カリフォルニア) UCバークレー校インターナショナルハウス(アイハウス)は1930年に建築とのアンティークなホールです。その空気感をいかしたく、舞台技術ティムさんの親切な協力で舞台上に14本の水ローソクを造形的に設置して上演。 2009年10月8日(サンフランシスコ) アジア美術館サムスンホールは2003年に韓国のサムスン社の協力で改築されたとのギリシャ神殿風の新しい空間。ここでは館内庭園の石を設置してエリアをつくり、隣接建物のブリッジからそのエリアまでを舞う空間として上演。 当日、デボラさんアナさんが台車で庭の石を運び洗い、設置を手伝って下さいました。 黒と木を基調とした古風なアイハウス。白と大理石の新しいサムスンホール。この対照的な会場を、いずれも2009年1月に下見しています。 その時「ここでは舞える」と直観しただけで、このような具体的なことは、この10月現場に着いてからのことでした。無意識に心の中で決めていたことが、あらためて現場に立った時に表出するのかもしれません。 空間の持つエネルギーとの一致、一体感は不可欠で、その空間を共有する観客との空気が、私の作品です。レクチュアのみで「鳥の歌」を舞わなかったポートランド州立大学、ロサンゼルスキャルアーツは、当然のことながら空気感の違いがあり、或る意味で勉強になりました。そしてレクチュアにおいては通訳の方の力量が大きな要素ですね。 千麗ホームページのレクチュア報告は http://www.senrei-nishikawa.com/After_USA_Tour2009.html #
by senrei-nishikawa
| 2010-02-05 23:09
10月 アメリカでのデモンストレーション・レクチュアに「鳥の歌」を舞うことを決めましたので、少しづつ思い出しながら、書きます。
「鳥の歌」出遇い 2002年の或る時(日記がないので・・・)国連のVTR撮影の依頼がありました。アメリカのスーザン・オズボーンさんの歌で、ということになり、選曲の為に聴いた一番最初の曲が、この「鳥の歌」でした。 彼女はこの曲をアメリカの作家ブルック・ニューマンの書いた” Little Tern "(小アジサシ)の物語として歌っています。 突然、飛ぶことの出来なくなった小アジサシが、悲しみやこれまで気付かなかったこととの出遇いを経て、やがて大空へ飛び立ってゆく、心の旅の不思議な物語の絵本で、五木寛之さんが訳をしていられます。 2002年7月26日、奈良天河神社 能舞台。アメリカから来日のスーザンさんとは初対面で、前日にリハーサルを一度して撮影。彼女は小さなアコーディオンを弾きながら自由自在に歌い、私は周囲の山々を背に、神殿を前にした透明な空気に包まれて守られているような心持ちで舞いました。 神殿でチベットのダライ・ラマ法王のところから来られた10人くらいの僧によるチベット語の「般若心経」の撮影もあり、子どもの時から意味も分らぬまま馴染んでいた「般若心経」が、別な言葉でも同じように体で感じられ、普遍性のあるものは言語を超えることを実感し、得難い経験だったと今も思います。 「鳥の歌」との出遇いは丁度、念願のユング研究所で舞う演目を思案している時で、その3ヶ月後ユング研究所(スイス・チューリヒ)とドイツ2箇所でこの時の「鳥の歌」を舞うことになるのですが、天河で同宿の夕食時に、スーザンの話す一言が、2003年のアッシジ聖フランチェスコ大聖堂での公演実現へと繋がってゆくのです。 #
by senrei-nishikawa
| 2009-08-16 23:04
「鳥の歌」それから
天河 能舞台での上演で、ユング研究所とドイツ2ヶ所での演目は「鳥の歌」に決めました。 そしてスーザンの歌の前に、この曲を広く世に知らしめたパブロ・カザルス演奏の「鳥の歌」にドイツ語のナレーションを入れることにしました。 彼はこの曲を演奏する時、云いました。 「生まれ故郷の民謡『鳥の歌』を演奏します。カタロニアの小鳥達は、青い空へ飛びあがると、ピース、ピースと啼くのです」 1961年11月13日、85歳のカザルスが、ケネディ大統領(第35代)に招請されたホワイトハウスでのライヴで、ノイズもあるのですけれど、フランコ独裁政権に抗い、終生帰ることのなかった故郷への思いが、ひしひしと伝わってきます。 ナレーションの内容は、このカザルスのメッセージ、私と「鳥の歌」との出遇いに、「Little Tern」の物語を少し話し終えたところでスーザンの歌にすりかわって舞う、という風に創りました。 舞は、小作品ですが、一気に出来上がったゆえかゆるぎなく、振り付けも手直しの余地なしに、其の後何度も舞っています。 2002年10月21日 京都清水寺 成就院 「月見の宴」の催で、座敷に屏風をしつらえてとの事でしたが、お座敷を客席にして、私は成就院の庭に面した廊下で、この「鳥の歌」を舞いました。背景は名庭に折からの美しい月がかかり・・・ 完成された日本の美の中にあって、西洋の楽器も、英語の歌も違和感なく溶けこみ、私を安堵させてくれました。 スイス・ドイツ出発の1週間前のことです。 2002年10月30日 ユング研究所(スイス チューリヒ) 人間の心を見つめ、研究する人達が世界中から集まっているところ。その人達はどんな風に感じ、何といわれるだろうか・・・ 今も、目を閉じるとその時の情景が浮かびます。洋館の中の広間に(勿論舞台も照明もなく)燈した4本のローソクの中で舞った「鳥の歌」。 ラスト、袖を大きく羽ばたいて隣室へ入る瞬間、何か殺気のような異変を感じました。 後から知ったことですが、 其の時、ローソクの火が敷物の黒布に移り、燃え上がったのです。最前列の女の方が布で叩き消して下さり、何事もなく引き続いてのレクチュアのVTRの上映がなされたのでした。 自分の仕事の在り様に自信が持てなくなった時取り出して読むのがこの時の参加者からの感想文。その中にはこの火事をユングの共時性ととらえられた一文もあり、真実は・・・?と時々思い出します。 そして私の念願実現にご助力くださったのは、当時ユング研究所で勉強していられた入野美香さん、名取琢自さん、松本依里子さん、佐藤ヒロミさん、佐藤由里子さん、前田正さん、そして禹鐘泰さん、皆さんどうしておられるでしょうか、私が其の後の歩みを進めたのは、この時のお蔭と、感謝しています。 11月1日 ベルリン東洋美術館(ドイツ) 2日 ライヒュハルト高等学校(ドイツ・コトブス) 同様のレクチュア・デモンストレーションを終えて帰国。国内では国際日本文化研究センター、同志社大学田辺校地ハローホールなどで上演、その都度、その空間によって、「鳥の歌」は新しく息吹きました。 今秋のアメリカではどんな風に・・・? 又、このひとりごとでお伝えします。 #
by senrei-nishikawa
| 2009-08-16 23:01
7月3日、セルリアン能楽堂での 千麗舞の夕 -古典二番-を終えてほっと一息。はじめてのブログ・メッセーヂです。
メールも何も出来ない私が、ブログにとりかかったのには、訳があります。 今春 31年間の日記を処分しました。ひとりで歩き始めた昭和53年からのもので、記録、その都度自分の考えてきたこと、作品を創るプロセスがつまっていて、今回も古典「八島」上演にあたり、昭和54年初演の時、其の後上演の度の頁を読み返し、7月3日の舞台にむかいました。 上演の度、同じ反省をしていたり、新たな発見に自分の成長を見たり、読み返すと、意外な展開が面白く、又、記録が全くなくなって困るのですけれど、捨てて了って、すっとして、これからの仕事に取り組めるなあ というのが正直な心情です。そこで今後の記録に・・・と思いたった次第です。 #
by senrei-nishikawa
| 2009-07-12 13:51
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