日記のなくなった現在、記憶にたよって書く他ないのですが、まづ「八島」のことを書きます。
祇園の故里春姐さんの「八島」を観て以来、いつか舞いたいけれど、それは私風の「八島」をと思いつづけていました。 昭和54年3月「画業60年記念梶原緋佐子展」でその画を見た時、これでなら、私の「八島」が舞えると思いました。髪型、帯の結び方は立役(男舞)の形で、きものは裾を長くひいていて、女舞の形です。 早速、床山(かづら屋)川合のお父さん(故川合幸三郎さん)に図録を持って相談に行きましたら、即座に「ええと思う。これは島原の千賀勇さんがモデルで、踊の上手い人やった」。 小林衣裳の奥さん(小林八重子さん)は 「こんなイメーヂ・・・」と衣裳を見立てて下さり、昭和54年10月26日岡崎「つる家」での「千麗舞の夕」での初演がこの写真です。 地唄「八島」は、謡曲「屋島」をもとにしたもので、旅の僧が屋島を訪れ、釣り糸をたれてまどろむうち、壇ノ浦の合戦のさまざまな幻覚が立ち現われ、そして夜明けと共にそれは消え失せて、僧は又、旅をつづけてゆく・・・こんな内容です。 旅の僧、立ち現われる亡霊、合戦の様、そしてまた立ち去ってゆく旅の僧を、全て一人で舞うのですが、何故あの画を見た時に、この姿でなら私の「八島」が舞えるとその瞬間に思ったのか、いまだに分かりません。男舞を、裾をひいて舞うことが活きるような身体の線や足の運び方、裾さばきの工夫が楽しく、振付もするすると出来上がったことを記憶しています。 その後の「八島」上演で、思い出深いのは平成7年11月13日東京・芝増上寺本堂。涅槃経をもとにした創作「色葉抄(いろはしょう)」を、どうしてもこの本堂で上演したく、当時の法主故藤堂恭俊様の特別の計らいで実現し、この創作舞踊と並べて上演する古典は、諸行無常をテーマとする「八島」しかないと思っていました。 間口10間、奥行9間の本堂を舞台として、内陣を観客席にしつらえ、「八島」を上演のときは御本尊の前に銀屏風を置いての上演でした。夕方5時閉門後リハーサルをして、7時開演。 「釣のいとまも波の上・・・」の唄で舞台に出て、正面向きになった途端にはっとしました。 前の上方に、黄金の阿弥陀様のお顔があり、私を見て下さっているのです。 リハーサルの時はまだ外が明るくて見えなかった、前面のガラス戸に映る黄金に輝く御本尊(阿弥陀様)だったのですが、その時はそのことまで分らず、唯、唯、前と後から大きなものに見守られる心持で舞終えました。 さて 今年の東京公演は、思いがけない事に芝・増上寺本堂で させて戴くことになりました ふり返りますと 十年前 嵯峨・天龍寺で「祇王がこと」を 舞いました折 鴨居を潜り 仏間へ入ったところから 舞い終わってはっと我にかえるまで 遠くから聴こえる笛と一絃琴の中を舞い漂っていた そんな無心のひとときでした そして 其の日は 誉めるひとも貶す人もなく 観客も私と何かを共有しあった様な風でした それ以来 誉められる様な仕事も 貶される様な仕事も 大したことではないなぁ と思ふ様になって 私の仕事は あの時のようでありたいと思ふています 其の後 不思議に 銀閣寺 金閣寺 長野善光寺 清水寺本堂 神護寺 清水寺奥の院と舞わせて戴く機会を得 その都度「上手に舞わねば・・・ 上手に舞いたい」 といふ心の中の大敵が 仏の御前にあっては自然と かき消されてゆく事に気付きました その時の案内状の一部です。文中、嵯峨天龍寺での「祇王がこと」は昭和61年11月25日、故平田精耕老師のお口添えで、故関牧翁老師の許しを得て叶ったことでした。以来、ずっと私室に飾っているのは、その時の「祇王がこと」の写真です。 #
by senrei-nishikawa
| 2009-07-12 13:45
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